日陰に咲く花
written by Kazuhide Oka
「日陰に咲く花」は、テキストアドベンチャーゲーム「ナツノカナタ」の前日譚です。
ナツノがあなたに出会う、ほんの少しだけ前のお話 ――
トンネルは短かったけれど、それでも目は暗闇に慣れる。
コンクリートのトンネルを抜けるのに十秒もかからない。出口の向こうの光が見える。入り口からの光が背後に消えていく。冷たい風が向こうからやって来て、何か知っている匂いを残して去っていく。
トンネルの上を走っているのはなんだろう。もうとっくに廃線になった線路――というのはただの想像で、本当のところはわからない。入る前に見上げたけれど、今はもうすっかり木々に覆い尽くされて、かつて何があったのか知りようもない。地図――か、あるいはネットワークに繋がる電波でもあったなら、確かめることができただろう。でも、今はない。ここがどこなのかだって、わからない。
暗闇に慣れた瞳が、トンネルを抜け、再び日差しを受ける。
一瞬、目の前が真っ白になる――とても強い、真夏の日差し。
そしてまたすぐに瞳は光に慣れ、彼女は――奈津野は、どこまでも続く海を見つけた。
水平線まで続く青い海。重たい雲の立ち上がる空。
トンネルの向こうまで駆け抜けていく風からは、濃い潮の香りがした。
錆びかけたガードレールの向こうに、穏やかな海が広がっていた。山の合間を抜けていた道は、そこで海と出会い、右に折れて海岸に沿って伸びる。ガードレールのすぐ先は岩礁だった。複雑なかたちに波がぶつかり、大きな音を立てる。奈津野はガードレールから身を乗り出して下を眺めてみて、飛び上がってくる水飛沫に思わず目を瞑った。
トンネルとその上の木々がつくっていた日陰を出れば、日差しが全身を包み、アスファルトからの照り返しが眩しく、海からの湿った風、波の音、陽炎に歪んだ景色――そこはもう、本物の夏の中だった。左手に海、右手にコンクリートで固められた斜面。しばらくの間、日陰という日陰のない道が続いた。道は海岸に沿ってずっといったところでうねり、斜面の向こうに消えている。その先に何があるのか、ここからではわからない。
奈津野は一つ息をついて、歩き出した。背後にかすかにあった涼しげな山の気配はその一歩で消え、背中にも潮の香りが絡みついてくる。それでも彼女は道を進む。道が北へと伸びているなら、後戻りすることはできない。
後戻りしたって何もない――東京には、たぶん、もう何もない。
あれだけのことがあったのだから、きっと誰も残っていないだろうと思う。ひどい病が流行した。流行はいろんなところで起きていたけれど、都市部の混乱は普通じゃなかった。高校に通うことができなくなり、家を出ることもできなくなって、かと思えば、今度は街にいることができなくなった。住んでいた人々は、みんな街を出て行った。散り散りになって、薄まって、誰もいなくなった。
そんな多くの人々の一人だった奈津野は、その道すがら、一緒にいた親友や、両親とはぐれた。そういう人もいくらでもいた。混乱があり、逃げるために駅や道路に人が溢れかえり、そして静かになったかと思えば、どことも知れない道端で一人になっていた。同じように一人で歩む人を、遠目に何度か見かけた。そしてそれ以上に、逃げ惑う最中に病に倒れた人の亡骸を見かけた。多くの人が、道の途中で、あるいは小さな町の片隅で病に冒されていた。
東京を出て、一ヶ月、奈津野は一人で歩き続けている。夏の日差しの下、住んでいたところと同じように人の消えてしまった街に立ち寄って、遺されたものを拝借しながら、なんとか生きている。この歩みを旅といってもいい。目的地はない。混乱の中で偶然乗れた電車が北へ進み、だからなんとなく、北に足を向けている。それだけの、あてのない旅。
スマホを出しても役に立たない。ついこの前、まだ燃料の入った発電機を運よく見つけて充電したから、画面に明かりはつく。でも、それだけ。圏外の、ネットワークに繋がらないスマホは何も教えてくれない。写真とか動画を撮るくらいしか使い道を思いつかない。その写真や動画だって、誰にも見せられないなら、虚しいだけだと思う。
たった一人きりだった。誰の声も聞こえず、ネットワークにも繋がらず。
「暑いなぁ……」
そんなだから、独り言も多くなる。最初はちょっと恥ずかしい感じがしていたけれど、もう慣れてしまった。どうせ誰も聞いていない。
何もかも初めてだらけだけど、この、本当の一人ぼっちも、彼女にとって初めてのことだった。家にいたって学校に行ったって誰かがいた。夜ベッドで眠りにつく直前だって、スマホで誰かと繋がっていた。チャットで話をしたり、通話を繋いだまま眠ってしまったり。いつだってスマホを見れば、そこには必ず誰かがいた。
でも今、こうして一人で歩いていて、たまにスマホをつけたりして、ふと、どんな風にみんなと話をしていたんだろう、と思ったりする。どんな話をしていたんだろう。話し始めるときは、どんな風に言えばいいんだろう。話題を変えるときは? 通話を切るときは? そういう当たり前が失われてたったの数ヶ月だけれど、もううまく思い出せなかった。もちろん話していた内容は憶えているし、チャットの履歴なら今でもスマホで見返せる。でも、どんな気持ちで話していたのか、どんな感じだったのか、そういうことはぼんやりとしか思い出せない。
そして同じように思う。
どうして、そんなに、みんなと繋がっていたかったのだろう?
奈津野は一人で、海岸沿いの道を行く。
錆びかけのガードレールが途切れ、コンクリートの堤防に代わる頃、奈津野は白い砂浜を見つけた。広い浜だった。広くて、何もない。海藻と、色とりどりのプラスチック片が打ち上げられている。奈津野は腰くらいの高さの堤防に寄りかかって覗いたけれど、それ以外には、本当に何もない。去年の今頃なら、もしかしたら海水浴に来た客で賑わっていたかもしれない。でも、もちろん今は誰もいない。
堤防の間から浜に降りる階段があった。
狭くて荒い階段を慎重に下って、浜まで降りてみた。
波の音が、ずっと近くに聞こえた。浜は広いから、波打ち際はまではまだ少しある。それでも、靴が柔らかい砂を踏んだ途端、白波をすぐそこに感じた。海の冷たさを確かめてみたくなった。こんなに暑くても、きっと潮水は冷たいだろう。靴を脱いで、膝下まで浸かってみてもいいかもしれない。絶対に気持ちいい。あとでべたついて後悔するかもしれないけれど、そんなことはどうだっていい。
海に向かおうとした彼女の足は、でも、一歩踏み出しただけで止まった。
奈津野の視線の先には、小さな小屋があった。
浜の隅っこに建つ、コンクリートブロックを積み重ねてできた小屋だった。屋根はトタンの板で、古びた木のドアがついていた。金属の留め具はどこもかしこも錆びついている。人の住んでいる家というのではなくて、倉庫か何かだろうと思った。掃除をする道具とか、もしかしたら屋台なんかが仕舞われているのかもしれない。
でも、彼女が驚いたのは、小屋を見つけたからではなかった。
足跡が――二人分の足跡が、白波の立つ波打ち際から、その小屋の入り口まで続いていた。
奈津野の目がそれを見つけた。
足跡の片方の端は白波にかき消され、もう片方は小屋の扉の下で途切れていた。
そんなに古いものではなかった。まだ波や風が拭い去っていない。今日か、昨日か、その前か、古くてもそのくらいだろう。波打ち際と小屋の入り口で途切れたきり、足跡はどこにも続いていない。何日かぶりに感じた人の気配だった。でも、あんまり現実感はなかった。
まるで、誰かが海の底からやって来たみたいだと思った。
足を得た人魚姫が、海から陸に上がってきた――そんな風に。潮風で角のとれた足跡がどっちに向かっているのか、本当のところは見分けることができない。小屋から出て海に向かったのかもしれない。けれど奈津野は海からやってきたんだと思う。海の底、海の中、あるいは、海の向こう。
奈津野は水平線のその先を見た。青い空が広がる。入道雲がそばだっている。海と空の切れ目があるだけで、何もない――でも本当は、その向こうにも人の住む陸があることを、もちろん彼女は知っている。もしかしたら、そこにはまだあの頃の日常が残っていたりするだろうか。世界中のどこかには、この海の向こうなら、まだ人々の暮らしがあったりするだろうか。
この海を超えれば――、
遠くを見つめ続けて、いつの間にか焦点が合わなくなる。あまりの遠さに意識がぼんやりする。感覚にあまる距離。意識が白んでしまうようなその遠さに、奈津野はふと思い出す。
少しばかり前のこと。
この海を越えてやって来た人のこと。
彼女と知り合ったのは、たぶん小学生の頃。
三年生よりは上だったと思う。同じクラスになって初めて顔を知った。奈津野の通っていた小学校は、二年に一度しかクラス替えがなかったから、やっぱり三年生の頃だろう。席がたまたま隣になって、彼女のことを知った。
その頃彼女は、奈津野が住んでいたのと同じ街に住んでいた。でも奈津野の住むマンションとは少し離れていて、彼女の家のあたりはちょっと高級な感じがするとこだったから、近寄り難い地域だったのを憶えている。でも、どんなところに住んでいても、親がどんな仕事をしていても、学校で会う分にはあまり関係がない。隣の席の彼女とは、すぐに仲よくなった。
彼女が中学生になる春――つまり奈津野も中学生になる春、彼女は親の都合でいきなり海外に引っ越すことになった。寂しかったけれど、泣いたりはしなかったと思う。別の中学に通うことになるのは彼女だけではなかったし、何より、その頃にはもうスマホがあった。昼でも夜でも、海の向こうにいたって、スマホをつければ話をすることができた。
もちろん、同じクラスだった頃より会話は減った。半分どころではなく、十分の一とか、それ以下だったかもしれない。それでも繋がりが断たれることはなかった。同じ中学校に進学した友達とだって、学校の中で疎遠になって、卒業まで一度も話さなくなったりしたのに。中学で新しい友達ができて、今までとは人間関係が大きく変わっても、彼女とのスマホを通した繋がりだけはずっと続いた。一ヶ月音信不通になることがあっても、ふとしたきっかけでチャットを送ったり、届いたりした。時差を気にしながら通話をしたのも、一度や二度ではない。
それから奈津野が高校生になる春、彼女は日本に帰ってきた。
海を越えて帰ってきた彼女は、またクラスメイトになった。見た目は小学生の頃とはずいぶん変わっていて、大人びて見えたけれど、中身は変わっていなかった。いや、本当は変わっていたかもしれない。でもずっと連絡を取り合っていた奈津野にはわからなかった。三年ぶりの再会のすぐあとだって、中学時代を一緒に過ごしてきたみたいに話ができた。とても自然で、当たり前で、おかしなことなんて一つもなかった。
彼女とはそのあともずっと友達だった。
でも、奈津野は今、一人で砂浜を歩いている。
こうして一人になって、思う。
一人になったから、思う。
どうして――あんなに話をしていたのだろう。
ずっと遠く、海の向こうなんかに行ってしまって。スマホを通さないと話ができなくて。それなのに連絡を取り合っていたのはなぜだろう。中学になって友達が他にいなかったかといわれれば、そんなことはない。彼女の方だって、新しい土地でうまくやっているようだった。向こうの友達を紹介してもらったこともある。それなのに、どうして自分は、どうして彼女は、繋がってい続けたのだろう。
失いたくない関係だっただろうか。かけがえのない、特別な人だっただろうか。悲しいけれど、たぶん、そんなことはない。他のクラスメイトと同じ、なんだってない友達の一人だった。そのはずだと思うけれど、じゃあどうしてあんなに話をしていたのか、今となってはうまく思い出せない。
一人でいる時間が長すぎるせいだ、と奈津野は思う。
あんまりに一人で、だから、今まで考えたこともなかった疑問を抱く。
何が、自分たちを繋げていたのだろう。
どうして、誰かと話をしていたかったのだろう。
全部、一人でいるせいだ――無理やり首を振って、奈津野は海辺の小屋の戸に手を伸ばす。
夏の光が差し込んで、花が咲いているのが見えた。
白い花だった。
知っている花だと思った。見たことがある。でも名前は思い出せない。小さくてかわいい白い花。戸が開き、日差しに照らされた小屋の中に、そんな小さな花がいくつも咲いていた。絡み合うように細い蔓が伸びて、薄い緑色の葉をつけている。狭い小屋の床は、全部植物に覆われていた。コンクリートで固められて、光なんてほとんど届かないはずなのに、緑は青々としていた。
そんな白い花に抱かれるようにして、
少女が二人、身を寄せ合うようにして眠っていた。
もう息はしていなかった。
二人の少女は、植物の蔓に身を覆われて死んでいた。奈津野より若い、中学生くらい。身体も長い髪も湿っていて、潮の匂いがする。眠るように穏やかに、互いの手を取り合って、半ば抱き合うようだった。身体が冷たくなってしまうよりもあと、ぐずぐずに腐ってしまうより前。奈津野は息を呑んだけれど、悲鳴を上げたり、吐き気を催したりせずに済んだ。人の死体なんて今までいくつも見てきたせいだし、何より、花に包まれて眠る二人が、あまりにもきれいに、美しく見えたから。
どんな二人だったんだろう、と思った。
考えるべきことは、他にいろいろあったかもしれない。でもそのときの奈津野は、まだ生きていた頃の二人のことを想像した。どういう関係だったんだろう。どこで出会ったんだろう。どうしてここに行き着いたんだろう。最期のそのとき、どんな言葉を交わしたんだろう――。
本当のことが、わかるはずはない。冷たくなった二人の唇は何も答えてくれない。あるのは、穏やかな表情と、力強く握られた手と、海まで伸びる足跡だけ。
それでも、思う。
二人は愛し合っていたのだろうか。
海に入ったのは、もしかしたら最期の思い出づくりだったのかもしれない。服を着たまま海に入り、声を上げて水の冷たさを楽しむ二人を思った。日が暮れて、くたくたになるまで遊んで、浜に上がり、そのときの足跡が今も残っている。そのまま、二人は小屋で眠りについた。最期のそのときまで、二人でいるために。
あるいは、夕日の沈む海へ、手を取り合って歩いて行く二人を思った。こんな世界で、二人だけになって、どうしようもなくて。どちらから言い出したともなく、夕暮れ時の海に入っていったのかもしれない。飢えたり、何かに襲われて命を落とすよりも、二人、手を繋いだまま海に沈んでいくのを選んだ。二人で海に沈み、死んでしまおうとした。でも、やっぱり死にきれなくて――海から上がって、この小屋の中で、静かに眠りについた。
いくつもの想像が奈津野の中で立ち上がり、静かに消えていった。虚しい妄想だった。真実が明らかになることはなく、何が真実であっても、すでに過去のことだった。二人はもう眠っていて、目を覚ますことはない。奈津野にできることは、開いてしまったこの扉を閉めることだけ。そしてもう誰にも開かれず、二人の安らな眠りを祈ることだけ。
扉を閉めようとして、でも、奈津野は躊躇った。
一人ぼっちの旅路にいつもついて回った問いかけが、ここでもまた聞こえてくる。
――何が、二人を繋いでいたのだろう?
愛情とか、友情とか、切なさとか、寂しさとか。そこにはどんな感情があっただろう。どうして二人は、最期のそのときまで二人で居続けたのだろう。愛だろうか。それとももっと打算的な関係だったのだろうか。一人よりも生き残る確率が高いから、とか、怪我や病気を抱えていて一人では生きていけないから、とか。
人はきっと一人では生きていない。奈津野は思う。奈津野は今一人だけれど、ずっとこのままというわけにはいかないだろう。一人きりでは、きっといつか限界がくる。町を彷徨って食べ物を見つけられなければ、歩くこともできなくなって死んでしまう。一人で探し出せる量には限りがある。
人は、一人で生きていくには弱すぎる。弱いから助け合って生きていく――いや、むしろ助け合って生きていくことによって、弱くなったのかもしれない。静かに眠る二人を見ていると、普段なら思いもしないことを考えてしまう。
長い長い時間の中で、奈津野たちの遠い祖先はともに生きていくことを選んだ。もちろん意識して選択したのではない、群れを為して集団で行動した方が、生き残る可能性が高かったというだけ。たくさん子を産んで、その中の優れた個体が生き残るよりも、弱い個体でも支え合って暮らし、助け合って生きる方が種として生存しやすかったというだけ。弱いから支え合う他なかったのか、支え合うことによって個体として弱くなったのか。どちらでもいい。どちらにしても、今、奈津野たちは一人では生きていけない。
そのせいだろうか、と彼女は思う。
この気持ちは――抱き合うようにして眠る二人を見ていて、どうしようもなく溢れてくるこの気持ちは、そんな生存戦略の名残だろうか。
愛しさや切なさ、寂しさ、誰かに会いたい、話していたいというこの気持ちは、人が誰かとともに生きていくために獲得した感情だろうか。かつて群れをつくり、社会を営むために必要だったのかもしれない。寂しいと感じることで社会をつくり、人は生き長らえてきた。遠い祖先が獲得したそういう情動を、奈津野たちは今でも忘れずにもっている。こんな世界で、見渡したって誰の姿もなく、たった一人彷徨い歩くほかなかったとしても。
苦しい、と思う。どうしようもない思いになる。泣いてしまいたいくらい。
でも、一方で、ここまでの旅の中でわかったこともある。こういう感情は、一時の、瞬間的なものでしかない。目を閉じ、開いて、歩いているうちに消えていく。そんなことよりも、食べ物にありつけない空腹の方がずっとつらい。
奈津野は深く息を吐いて、それからそっと扉を閉めた。
花の咲く小屋に差し込む光が奪われる。
どうしてほとんど光の届かない小屋の中で植物が育つのだろう――扉が閉まる直前、とふと考えた。土だってないし、植物には日の光が必要なはず。そもそもなんという品種だろう。真っ白な花が扉の向こうに消えるそのとき、その花が少女たちの肌に根を張っているのが見えた気がした。白い腕やふくらはぎに埋まった種が、筋肉に根を張り、皮膚を突き破って蔓を伸ばしているみたいだった。彼女たちの内側から生まれ、二人の命を吸い取って花開いている――そんな風に見えた。
奈津野は思わず手を離した。
けれど、一度ついた勢いのまま、戸は音を立てて閉まった。
扉が閉まると、西からの風が彼女の前髪を煽った。
急に波の音が大きく聞こえた。
いつの間にか空を雲が覆っていて、強い風が海の方から吹いてきた。押し寄せる波もさっきより大きく見えた。
奈津野がもう一度その扉を開けることはなかった。
きっと気のせいだろうと思った。目の錯覚だと。少し疲れている自覚があった。
彼女は来た道をそのまま引き返し、コンクリートの階段を登って、もとの道に戻った。
アスファルトの路面を踏んだ途端、ふと目が覚めた気分になった。
ついさっきまでのことが夢の中の出来事みたいに思えた。潮の香りも、波の音も。さっきまで踏んでいた砂の感触だってうまく思い出せない。浜を見下ろせば、その隅っこに確かに小屋はある。けれど、その中で何が眠っているのかうかがい知ることはできない。ぼろぼろの小屋は、ただ海風に耐えている。
見ていた夢が、朝、目が覚めて急に遠退いていくみたいに、現実感が薄れていった。でも朝の目覚めがそうであるように、ぼんやりとした印象だけが、確かにあった感触だけが、胸の内に残っている。
どうしようもない気持ちになる。
どうしてだろう、と思う。
見渡す限り誰もいない道で、遠くに小さな町の影を見つけて考える。
こんなことになる前――まだあの町から人の声が聞こえていた頃。町があり、社会があり、法律があり、確かな繋がりがあった頃。
その頃なら、こんな感情、捨ててしまえただろうか。
どうしようもなくこみ上げてくる気持ち。寂しさとか切なさとか、胸の締め付けられる苦しさ。どうしてこんな気持ちになるのだろう。この気持ちは必要だろうか。もし、捨ててしまうことができたなら、捨ててしまえばよかっただろうか。
かつて人は、群れや社会を維持するためにこの気持ちを手に入れた。でももし人が、そのあとの進化によって、感情なんかではなく知性や理性で社会を維持できたとするなら? 自分たちの利害を思案して、ともに生きることを選べたとしたら? すでにこの気持ちは、かつて遠い祖先が獲得しただけの時代遅れな遺物なのではないだろうか。失ったって、人として生きていくことができたのではないだろうか。そうかもしれないと思う。自分の弱さを知り、他人と生きる利益を想像できるだけの知性があれば、感情なんかなくても人はそれまでどおりの社会を続けられる。もしある日いきなり感情を失ったとしても、人が散り散りになるとは思えない。一人で生きていけないことを知っている。人と人との関係は大きく変わるかもしれないけれど、人という種が滅んだりはしないだろう。
でももしかしたら、そういう利害だけをもとにした関係はどこかで破綻するのかもしれない、とも思う。この気持ちがどうしても必要なのかもしれない。愛や寂しさがなければ、家族をつくったり、子を育てることはできないのかもしれない。
もちろん本当のところはわからない。感情を失ってみることなんてできないし、そもそも、維持すべき社会は少し前に失われてしまった。今となっては、何もかも虚しい空想でしかない。
奈津野は小屋の中で見た小さな花のことを思い出した。
あの小屋の中に咲いていた花は、何かを訴えていた。
あの花だけではない。この旅路で見かけた花は、どんな花だって訴えている。「ここにいる」と鮮やかな色やかたちや匂いで語りかけている。そうして虫や鳥に見つけてもらって、花粉を運ばせる。多くの植物はそうすることで生き残ってきた。植物が長い時間の中で編み出した戦略だった。
でも、あの小屋の中で、光も受けずに咲く花にとって、その鮮やかさや香りは必要だっただろうか。ただ祖先の代からそうなっているだけの、今この瞬間にはなんの役にも立たない機能だっただろうか。
考えたってわかるはずもない。こうして考えていることだって、きっと明日には忘れてしまう。慣れてしまう。お腹が鳴って、空腹にかき消されてしまう。
けれど、だから、奈津野は今のうちに思いを馳せる。
この気持ちは、どこからきて、そしてどこへいくのだろう。
寂しさは、こんな世界で、人をどこに連れていくのだろう。
ポケットからスマホを出した。
意味なんかない。電源はつくけれど、電波が飛んでいないのではできることなんてない。でもこういう癖は意外としぶとくて、なんとなく、ときどきスマホを確認してしまう。海の向こうにいた彼女と連絡を取り合っていた頃と同じ。鳴ってもないスマホを出して、なんとなく眺めて、またぼんやりする。
海はいつの間にかずいぶん遠くに離れていた。
目の前には小さな町。山裾に広がる静かな住宅街。静かすぎて怖いくらい。きっともう誰もいないだろうと思う。今までの町がそうだったように。病に身体を冒されて死んでしまったか、人の集まるところを避けて逃げ出してしまったか。東京を離れてずいぶん来たつもりだけれど、いったいどこまでこんなのが続くのだろう。ここに住んでいたはずの人々は、どこに行ってしまったのだろう。
誰もいない。
もしかしたら、この先もずっと。
奈津野はスマホを仕舞おうとして、ふと画面に何かが映っているのに気づいた。
画面は、町の薄暗い日陰をぼんやり映しているように見えた。
きっと気づかないうちにカメラを起動していたんだろうと思った。動画撮影モードだった。電波が入らなくても写真や映像を撮ることくらいできる。最初の頃は、暇つぶしにそんなこともやっていた。なんでもない景色の写真を撮ったり。自撮りしたり。でもすぐに飽きてしまった。最初の頃――というのは、つまり一人きりになった頃のことで、それからもうずいぶん経ってしまったのだと他人ごとみたいに考えた。あの頃よりもずっと暑くて、蝉がうるさい。
スマホはまだ景色を映し続けている。
せっかくだから、何か喋ってみようと思いついた。
理由があったわけではない、と思う。自分の声を録音して、生きていた証を残しておきたいとか。眠れない夜にときどき聞いていたラジオのパーソナリティに憧れていたとか。そんな気持ちがあったわけでは、たぶん、ない。ほんの思いつきで、ただの気まぐれ。そういえば、今まで風景の写真を撮ったり見かけた猫の動画を撮ったりしたことはあったけれど、喋っている自分の声を録音するなんて考えたこともなかった――とか、そんな風に思っただけ。
だから、これはただの偶然。
「あー、あー」
でも、今になって思い返してみれば。
もしかしたら、このときにはもう、何か予感みたいなものがあったのかもしれない。
「……繋がるわけ、ないっか」
繋がる、と言葉にして、やっと自分で奇妙に思う。
何と繋がっているというのだろう、と思う。
空の青が眩しい。
蝉の声がうるさい。
日差しに汗が止まらない。
そのとき、聞こえた。
青い青い空の下、いつまでも続く夏の音に混じって、この日――あなたの声が、聞こえた。