ファインダー

ファインダー

written by Kazuhide Oka

「ファインダー」は、テキストアドベンチャーゲーム「ナツノカナタ」の前日譚です。

まだすべてが始まる前、シノが故郷の町を出て、初めての5月の連休のこと――

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「どうして、ここにしたの?」
 グラスの中で、氷が固い音を立てた。
 里見が目の前のソファに座った。彼女の手の中にあるのは生クリームがたっぷりのったフラペチーノで、テーブルの上に静かに置かれた。グラスではなく使い捨てのプラカップだったから、音の立てようもなかった。
 どうして、と訊かれて、どうしてだろう、と思った。
 思った、というのは少し違う。ずっと思っている。頭の片隅でいつも考えている。でも考えているのかといわれると、それもやっぱり違うような気がする。頭の片隅にずっとある。雨の前の雲みたいに漂っている。
 どうして、この街に来たのだろう。
「あっちのテラス席、気持ちよさそうなのに。天気、いいよ?」
 里見がスマホで写真を撮りながら言った。ロゴが手前に来るよう、カップを回す。
「……席の話?」
 確かに店にはテラス席があって、春の日差しで充ち満ちていた。ガラスの向こうは眩しいくらいで、それに比べると、明かりの控えめな店内は日陰のように見える。
「だって……日焼けしちゃうじゃん」
 外の光が強すぎて、すぐにテーブルに目を戻した。
「へぁー。そういうのちゃんと気にしてるから、志野ちゃんはそんな色白なんだなー」
「まーね」
 出任せだった。まだ五月も始まったばかり、こんな時期から日焼け対策なんてしない。いや、この街の子は――クラスのみんなは、もしかしてしているんだろうか。思い返せば、今日ここに来るまでの間に日傘を差した人を見たような気もする。今度、それとなくみんなに訊いてみよう、と志野は思った。
「いいなー、志野ちゃん。うちも早く引っ越したーい」
 五月の始め――そう、まだ五月が始まったばかりだった。志野が生まれ故郷の町を出て、まだ一ヶ月と少し。この街で過ごす最初の五月の連休に、里見が志野を訪ねて遙々やって来たのだった。里見は中学の後輩で、後輩というより妹みたいだった。生徒がほんの数人の小さな中学校、それが町に住む中学生のみんなで、もちろん生まれた頃からみんな知り合いだった。里見の面倒は幼い頃から見てきた。「後輩」なんて言葉は、この街に来て初めて使った。確かに里見は中学の後輩だけれど、後輩なんていうとちょっと他人行儀に感じる。
 でも「友達」という言葉も少し違うんだな、と志野は思う。
「親は説得できそ?」
 自分と里見が友達なのかといわれればそうなのだけれど、でも、そんな感じはしない。志野にとって里見は、やっぱり面倒を見るべき妹のような存在であり、この街の高校で初めてできたクラスメイトとは違う。
「どーかなー。相変わらず、止められはしないけど、嫌な顔されるって感じ。嫌なら嫌って言えばいーのに」
「言いたくないんでしょ。親だから」
「めんどくさいなー」
 呆れた顔をしながら、でも志野には里見の気持ちがわかる。中学二年になった里見は、将来――できれば高校入学と同時に、あの山の中の田舎町を出て、賑やかなところに行きたいと思っている。かつて志野も同じように思い、この春、やっと望みを叶えた。寮のある高校に入学し、この街で暮らしている。憧れていた、大きな街での暮らし。たくさんの同級生と、流行りの店、イベント、その他いろいろ。
「……別に、こんな歳になってまで、あたしの真似しなくてもいいのに」
「まーた、そういうこと言うー。志野ちゃんの真似してるんじゃないもん。うちが、やりたいだけ!」
「だって里見、昔っからずっとあたしの真似ばっかして――」
「もー! 志野ちゃん、親よりしつこい!」
 里見がストローに食らいついて思い切り吸う。ここが町の食堂だったら、こんな大声、きっと店のおじちゃんに笑われていただろう。でもここは街のカフェ。誰も気にしない。視線の一つも感じない。
「……じゃあ、なんで」
 志野はアイスコーヒーに口をつける振りをして、言う。
「なんで、町を出たいの?」
 どうしてだろう、と思う。どうしてなんだろう?
 テーブルに落とした視線を少し上げて、里見の顔を見れば、彼女は大げさなくらい首を傾げていた。小さな頃から自分の真似ばかりしていた彼女だけど、こういうところは全然似ていない。里見はとても素直で、わかりやすい。
「そんなの、志野ちゃんが一番知ってるじゃん」
 変な顔をしながら、彼女はあくまで質問に答える。
「あんな町にずっといたら、二十歳になる前におばあちゃんになっちゃうよ。心が」
 数年前の自分は、きっと似たようなことを里見に言っただろう。でも今の里見のことを、昔の自分のようには思えない。どうしてだろう、と思う。言っていることは、やっていることは、昔の自分自身とそっくりだった。なのに、違う。
 いや――違うんじゃない。たぶん、思い出せないんだ。その頃の、自分のこと。
「あ、そいえばね」
 里見がテーブルの上に投げ出されていたスマホを取る。
「おばあちゃんで思い出したけど、安達のおばあちゃん家の猫、この前子猫産んだんだー。ね、見て見て。かわいくない?」
「あー。見たよ。里見、あたしに写真送ってくれたじゃん。……ってゆーか、その画面、あたしに送ったメッセじゃん」
「あ、ほんとだ。送ったっけ?」
「不安だなー。里見、町出て一人で生活できる?」
「できるよー。……たぶん」
 スマホの中に収められた写真の一覧を出して、志野には送っていない写真や動画を見せてくれる。生まれたばかりの子猫は、まだ全然、猫っぽくない。
「でも、だって、一人って言っても、寮母さんとかいるんでしょ? 寮の人も高校の人だし、一人じゃないんでしょ?」
「うちは、まぁ、そうだけど」
「へぁー。寮のこと、うち、とか言ってみたーい!」
「……うるさ」
 白に黒い斑点の親猫が、生まれたばかりの子猫を舐めている。まだ目も見えない子猫は、別の生き物みたいで、正直、かわいいとは思えない。でも里見はかわいいかわいいと言っていろんな写真を見せてくれる。この写真を撮ったのは彼女で、生で見ている。その違いのせいだろうか、と志野は思う。
 写真の猫は布を敷き詰められた段ボール箱の中に横たわっている。段ボール箱に見覚えはないけれど、その部屋のことは知っている。よく里見と安達さん家の猫をかわいがりに行っていた。褪せた畳も、磨りガラスの引き戸も、懐かしい。
 懐かしいと思う――でも、その頃の自分のことを、うまく思い出せない。
 賑やかすぎるくらい賑やかなカフェで、アイスコーヒーの後味を感じながらスマホをいじっているこの自分と、その頃の自分が――写真に写った猫を撫でていた頃の自分が、真っ直ぐに繋がらない。情景を思い出すことはできても、自分の気持ちが、感じが、戻ってこない。ともすれば、赤の他人のように思える。もし里見がこの写真を撮った、その場に自分もいたらどんなことを思っただろう――想像しようとしても、どうしても、うまくいかない。
「……えー?」
 ひとしきり写真を見せ終わると、里見は気に食わない様子で口を尖らせた。ああ、と思う。彼女のそういう仕草はよく知っている。あの町にいた頃、行くところもなくて、放課後誰もいない教室で話していたのを思い出す。でも、その景色の中に自分はいない。自分の記憶なのだから当たり前だけれど、でも、その視界の手前に自分を感じることができない。
「じゃあ、志野ちゃんは、なんでこの街に引っ越したわけ?」
「どうしてって、そりゃ……」
 どうしてだろう。
 考えて、なのに、考えている間に問いかけがひっくり返る。どうして故郷の町を出たのか――どうして、今、こんなにも故郷のことばかり考えてしまうのか。
「後悔とか、ある?」
「……ないよ。後悔とか、そういうのは、ない」
 嘘ではなかった。でも、ならなんだというのだろう、と思う。
「親に無理言って出てきたのとか、まだ小さい子たちの面倒みてやれなくなったのは、申し訳ないってちょっと思ってるけど。でもあたしの人生だし。子供の面倒は、里見たちが見てくれるだろうし」
「まーねー。志野ちゃんがいなくなって、責任感っていうか、そういうの感じるようになったかも。ちょっとだけ、ね」
「里見もお姉さんになったなぁ」
「そーだよー。立派なお姉さんになりました」
 里見が胸を張るので、志野は思わず笑ってしまった。でも、そのとおりだった。里見ももう幼かった頃の彼女ではない。もし町を出て一人暮らしをすることになっても、きっとうまくやるだろう。志野だって、言葉ではああ言ったけれど、本当はそんな心配をしているのではない。なのに、彼女が町を出たいと言う度に、何か苦しくなる。止めたくなる。
「なんで、なんだろ……」
 どうして――町の外での暮らしを素直に、真っ直ぐに語れる彼女を見ていると、こんなにも胸が苦しくなるのだろう。
 そのとき、賑やかな店に、もっと賑やかな何人かが入ってきた。
 カウンターの前のメニューを見上げていたその客の一人が、店の中に志野を見つけた。 
「あ、志野ちゃんじゃーん」
「え――あ、繰実ちゃん! ……ってか、みんないるじゃん!」
 高校のクラスメイトたちだった。買い物に行った帰りのようで、各々がいろんな店のロゴの入った袋を下げていた。見覚えのあるロゴもあれば、そうでないのもあった。彼女たちは志野を見つけては声をかけたり、手を振ったりしてくれた。
 志野は思わず立ち上がった。向かいに座っている里見を隠すみたいに。
 一人が席まで駆け寄ってきて、昼前に集合してからの出来事をかいつまんで話してくれた。もう午後三時を回っている。
「これからまた行くんだけどさ、志野ちゃんも――ってか、そっか。志野ちゃん、今日は用事あるって言ってたんだった。何? デート?」
 彼女が席に座ったままの里見を見た。普段は賑やかな里見も、さすがに借りてきた猫みたいに縮こまっていた。
「そーゆーのじゃないよ。この子は、えっと……中学の頃の後輩!」
「へー。志野ちゃんの中学って、結構遠いとこだよね。じゃあ、今日は遊びに来てるんだ」
「うん、そんなとこ」
「じゃあ、お邪魔しちゃだめだよねー。じゃあね、志野ちゃん! 後輩ちゃんも!」
 みんなのところに戻っていく彼女を志野は手を振って見送った。
 それからクラスメイトたちはもう志野の方に目をやることもなく、お喋りを続けながら注文を済ませて奥のボックス席に消えていった。賑やかな声が遠ざかって、里見はやっと息をついた。
「……学校の人?」
「そーだよ。みんな、クラスメイト」
 ぶっきらぼうに答えた。そういう返事しかできなかった。
 志野は意識して、自分を切り替えなければならなかった。この街のクラスメイトと喋っているときの自分と、故郷の町で過ごしていた頃の自分。彼女の中で、その二つがなめらかに繋がらない。クラスメイトたちと話している自分を里見に見られるのは気恥ずかしかった。
 でも、里見の方は大きく息を吐いて、感心していた。
「志野ちゃんはすごいなー」
 彼女は天井を見上げる。シーリングファンが静かに回っている。
「うち、あんな風に都会の人たちに溶け込めるかなー。ちょっと不安になってきたかも」
「……できるよ。大丈夫」
「そーかなー」
 きっとできる、と志野は思う。確かに最初は少し戸惑ったけれど、彼女たちのノリに合わせるのは大変ではなかった。苦でもない。あの中に入ってしまえば、たぶん誰だってああなれる。志野は、それとは逆のことを考えている。里見と話をするときの自分に気持ちを切り替えようとしているけれど、どうしても、うまくいかない。彼女と話をすることはできる。里見の様子からしても、今日の自分がおかしい、ということはないだろう。自分が気にしすぎかもしれない、とも思う。でもやっぱり志野の中に違和感は残った。もっというと、どうしてこの違和感がそんなにも気になってしまうのか、ということの方が重要だった。
 クラスメイトたちとの急な遭遇もあり、なんとなく店に居づらくなって、二人はそれからしばらくもしないうちに席を立った。志野は一人、クラスメイトたちがお喋りを続けている方を見やったけれど、誰とも目は合わなかった。
 店を出て、かといって行く先は別段なかった。里見は買い物をご所望だったけれど、具体的に目的の物や店があるわけではない。志野だって、この街に来てからまだ一ヶ月。駅を中心に広がる繁華街を案内できるほどではない。二人は、とりあえず近場のモールに入ってみることにした。
 その道すがら、電器屋の前を通った。
 店頭にディスプレイされているそれが横目に見えて、志野は立ち止まった。
 カメラだった。プロ仕様の一眼レフ。隣に付属のレンズが何本か並べられていた。
「志野ちゃん、そういうの興味あったっけ?」
 里見が振り向いて言った。
「や……なかったけど」
 志野は店の中を覗いてみる。専門のフロアのようで、カメラがずらっと並んでいる。このときの志野にはそれぞれの違いなんてわからなくて、全部同じに思えた。
「でも、最近、カメラとか買おっかなーって思ってて。高校の入学祝い、何にも使ってなかったし。バイトも始めるし」
「へぁー」
「こんな高いのじゃなくていいけど……」
 隣の棚に行けば、最初に目に入ったのよりずっとコンパクトで、手の出しやすい価格帯になった。ミラーレスというらしい。それだって、いったいどんな違いがあるのか志野にはわからない。その中の一つを手に取ってみた。展示用のモックアップではなくて、それなりの重みがあった。ボタンを押せば電源が入り、モニタに景色が写る。
「カメラかぁ。どんなの撮るの?」
「どんなのって」
「志野ちゃんかわいいし、モデルさんになる?」
「それ、あたしカメラいらないじゃん」
「じゃあ、何撮るの?」
「さぁ……」
 ここでまた彼女は、どうして、と思う。
 どうしてカメラなのだろう。今まで興味なんてなかった。写真を撮るだけなら、スマホで十分だと思う。ランチの写真を撮ったり、友達と記念撮影したり、そんなのは全部スマホでいい。なら、このカメラはなんのためなのだろう。大きな街にやってきて、新しいものといっぱい出会って、ほしいものが増えた。なんでもネットで買えるけれど、やっぱり店頭に並んでいるのを直に見るとほしくなる。でも、カメラは、それとは違う気がする。少し前に何かでカメラを見かけて、はっとした。ずっと前から自分の中にあった気持ちに、そのときやっと気づいたみたいだった。
 恋をするときって、もしかして、こんな感じなんだろうか――そんな風に思って、でもすぐに馬鹿馬鹿しくなって、考えるのをやめた。手元のカメラが映す映像を見た。カメラはなんとなく構えられたまま、店の中を映していた。
 それを見て、奇妙な気持ちになった。
 記憶が勝手に掘り起こされる感じだった。モニタに写った景色を見て、自分が初めてその景色を見たときのことを――ついさっき店を覗き込んだときのことを思い出した。ほんのりした期待と、よく知らない世界を覗き込む不安。それから、どうして、という謎。そういう気持ちが、感じが、ふっと自分の中に戻ってきた。思わずシャッターを切っていた。撮影された静止画が一瞬画面に出て、消える。保存された写真を見る方法はわからなかった。でも、今の一瞬がこの中に残っているのだと思った。それを見れば、きっと、何度でもあの感じが戻ってくるのだと思った。
「――景色、かな」
 口を突いて出た言葉が、里見への返事になった。
「この街の景色ってこと? まぁ、やっと念願の都会に来れたんだもんね」
「や……そうじゃなくて。ここじゃなくて」
「なくて?」
「もっと、なんていうか……自然の景色とか、撮りたい、かな」
 話ながら、そうなんだ、と自分で驚いた。この気持ちがなんなのかわかった気がする。話ながら、言葉で、自分の気持ちが説明される感じだった。
 失いたくないんだと思った。
 あったはずの自分が失われていくのが、怖いんだと思った。子供の頃何を考えていたのかわからなくなるように、この街で暮らしているうちに、故郷にいた頃の自分が消えてしまうような気がして、それが怖かった。でも、あの町での暮らしに未練があるのかといわれると、そうではない。昔のことを大事に思っているかどうかはあまり関係がなくて、ただ失うことに恐怖を感じているのだった。もっていたものを、あったはずのものを失うことが、嫌なだけだった。
 大事なものなのかどうかは、まだわからない。でも、だから、失いたくない。
 そんな気持ちが、やっと志野の中で言葉になった。それを説明できると思って、彼女は口を開いた。
 けれどその前に、里見が言った。
「それって、ホームシックってこと?」
 あんまりにも素直で、真っ直ぐだった。
 志野は思わず笑ってしまった。そのとおりだ、と納得した。なんてまどろっこしく考えていたんだろう。そう、ホームシック。それだけだった。なんのことはない。後悔とか、失いたくないとか、過去の自分とか、そんな風に説明するのも馬鹿らしい。きっと誰だって感じる、当たり前の気持ちだった。そう思うと、笑いが止まらなかった。声を上げて、手の中のカメラを落としてしまいそうになって、それでも堪えられなくて笑った。里見がびっくりするくらい。目に涙が滲むまで。
 笑いながら、泣きながら、志野は決めた。
 いつか、カメラを買おう。
 それを持って、町に帰ろう。
 そうしたらきっと思い出せる。町で暮らしていた自分のこと。あの頃の自分が、どんな感じだったのかってこと。そして写真を撮る。あの町のことだけではなくて、そこにいた自分がどんなだったのか、忘れないために。いつでも思い出せるように。
 故郷のことも、この街のことも、これから行くいろんな場所も、写真に残しておこう。町も、世の中も、自分も、これから変わっていくだろう。今こうして大きな街に根拠のない期待を寄せている自分も、いつか消えてなくなる。でもそのとき、この自分がいたことを忘れたくない。昔の自分と今の自分が、そして未来の自分が、なめらかに繋がることはないかもしれないけれど、それでも、こんな自分がいたことを憶えていたい。
 ひとしきり笑うと、額に汗が浮かんでいるのがわかった。
 見上げれば、青い空の向こうから日差しが降り注いでいる。この街で過ごす初めての季節だった。この街では何もかもが初めてで、何もかもが新しかった。
 もうすぐ夏が来るのだと、そう思った。

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